石橋を叩いて笑う

徒然なるままに

羅生門ランチ

 

ある日の昼時の事である。一人のオタクが、台所で昼食を待っていた。

広い家の中には、このオタクのほかに誰もいない。一人暮らしとは考えにくい一軒家である以上は、このオタクのほかにも、二三人はいそうなものである。それが、このオタクのほかには誰もいない。

 

何故かと云うと、この日、美味いラーメン屋があるという事で他の家族は皆出かけていた。オタクが目を覚ました12時半には、この家には誰もいなかったのである。当然家族は家を出る前にオタクにも声をかけたが、今朝未明までTwitterを眺めて起きており、今は深い眠りについていたオタクの耳には届かなかった。

 

作者はさっき、「オタクが昼食を待っていた」と書いた。しかし、前にも書いたように、この家にはオタクのほかいない。だから「オタクが昼食を待っていた」と云うより「オタクが昼食を用意しようとしていた」と云う方が適当である。

その日の夕飯の食材を毎日買って使う主義の母のいる家には、殆どの新鮮な食材はなかった。「新鮮な」と書いたのは、賞味期限がいつかも分からない食材は数多く冷蔵庫に潜んでいることを知っていたからである。オタクはいつもその食材達とは目を合わせないようにしていた。また田舎にある家からコンビニまでは数kmあり、わざわざ買い物に行くのも面倒であった。そこで、オタクは、今食べられそうなものをどうにかしようとして──云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめのない考えを辿りながら、さっきから待っていても出ては来ない昼食の事を、考えるともなく考えていたのである。

 

どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、台所の床か、諦めて寝に行ったベッドの上で、饑死にをするばかりである。選ばないとすれば──オタクの考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。オタクは、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「腹を下す事になるほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 

オタクは、大きな溜息をついて、それから、大儀そうに立上った。昨夜夕食を軽めに済ませてしまった胃は、もう限界であった。飢えは胃と脳との間を遠慮なく行き来する。オタクは、躊躇いながら、冷凍庫の奥底に眠っていた食パンを取り出した。包装の左上に書かれていた賞味期限には、去年の日付が書かれている。なんでも凍らせれば一生腐らないと信じてやまない母が冷蔵庫に眠らせていたパンである。オタクはその存在を知ってはいたが、今まで手を伸ばした事はなかった。

オタクは、胃腸が貧弱であった。高校入学時の自己紹介では直前に緊張して腹を壊して保健室へ行き、便秘になってコー◯ックを一粒服用すれば二晩腹を壊し続けて脱水状態になり、電車の中では腹を壊して人生の危機に陥りかけた事が幾度となくあった。そのオタクが、化石になったようなパンを手に取り、今後の人生を左右するとも言える大きな分岐点にいた。

 

それから、何分かの後である。閑散とした冷蔵庫の中段に、一個の卵が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、オタクの様子を窺っていた。冷蔵庫内を照らす光が、かすかに、その卵の頭をぬらしている。

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白い殻の中に、2018.01.30の日付のある卵である。オタクは、始めから、この冷蔵庫にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、冷蔵庫の中を漁ってよく見ると、新鮮な卵がいるらしい。この飢えの日に、この冷蔵庫の中で、オタクを見ているからには、使う以外の道はない。

オタクは、賞味期限の切れていない食べ物がほかにもあることを神に祈りながら、やっと一番上の段まで這うようにして探し回った。そうして恐る恐る、上段の奥を覗いて見た。

オタクの眼は、その時、寂しく一枚だけ蹲くまっているスライスチーズを見た。

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本来なら7枚入りで売っている、とろけることを謳う、平たい、誰もが目にしたことのあるであろうあのスライスチーズである。そのチーズは、他の6枚に先立たれ、忘れられた自分の身を嘲笑っているかのように、冷蔵庫の一番端に身を寄せて震えていた。

 

オタクには、勿論、そのチーズがいつ購入されたものなのかはわからなかった。従って、合理的には、それを食べても良いのかどうかを知らなかった。しかしオタクにとっては、この飢えの昼時に、この冷蔵庫の中で、食べられそうな感じがするチーズであると云う事が、それだけで既に許されるべき善であった。勿論、オタクは、さっきまで自分が、胃腸に賞味期限切れの食材を入れるかどうかで迷っていた事なぞは、とうに忘れていたのである。

そこでオタクは、いきなり、上段に隠れていたチーズを掴み、卵と共に冷蔵庫から引っ張り出した。そうして化石のようなパンの前に置き、食材達を出会わせた。チーズが驚いたのは云うまでもない。

 冷凍されていてカチコチだったパンも常温に戻されたことで僅かではあるが本来の柔らかさを取り戻し始めていた。オタクはスライスチーズを千切ってパンの中心を開けて置いていった。

 

卵は、一目オタクを見ると、まるで弩にでも弾はじかれたように、流しに向かって転がっていっていった。
「おのれ、どこへ行く。」
オタクは、卵がチーズにつまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、こう罵った。卵は、それでもオタクをつきのけて行こうとする。オタクはまた、それを行かすまいとして、押しもどす。一人と一個は台所で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。オタクはとうとう、卵をつかんで、無理に中心へねじ混んだ。 

 

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オタクは、食パンの消費期限は長くても常温なら4〜5日、冷凍しても最大1ヶ月が限度であることを知っていた。カチカチに硬くなったパンは食べてはいけないことも、加熱してもどうにもならないことも知っていた。しかし、それでも、オタクは食べようとすることをやめなかった。「焼けばどうにかなる」オタクはパンにそう云い聞かせ、パンもまたそれを信じるかのようにオタクの目を見つめ返して頷いた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「このパンを焼いてな、このパンを焼いてな、昼食にしようと思うたのじゃ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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オタクの行方は誰も知らない。